私の生まれは、昭和24年3月12日です。
父勝太郎、母イセ子の間に長男として誕生しました。
家は代々農家でありましたが、父は志願兵として第2次世界大戦中、満州から沖縄へ渡り終戦は沖縄の“マブニ”の海岸の洞窟でむかえたそうです。足と腕に砲弾を受け、現在でも右腕が半分くらいしか曲がりません。もし戦争から生還しなければ私はこの世に生を受けていなかった訳で、初めて沖縄へ行った時は、不思議な感動で胸がいっぱいになりました。
私の母は、十文字町三重村から嫁になり、見合い結婚だそうです。お見合いの席で父にお茶を出し、はずかしくろくに顔を見なかったため、結婚式で出迎えた、年頃の男衆の中でどれが父かわからなかったそうです。
今では考えられない時代に私は生れました。
私には、妹(優子)と弟(勝二)がおります。妹が生れると祖父、祖母の部屋で寝るようになり、どちらかと言うと“じさ”“ばっぱ”が父親母親役でした。
幼年期や小学校の頃は、戦後の食糧難の時代で、なんでも良く食べました。
道ばたに生えている“スカンポ”に塩をつけて食べたり、スモモ、ムカゴ、生グリやその他、食べれるものは何でも食し、良く病気などしなかったのか不思議でした。
遊びは何でもござれで、夏は河で水泳ぎ、野球も正規のルールではなく、3人打ちのベースボールや、バスケット、相撲などもよくやりました。
中学ではかわいい娘がいたので卓球部に入りました。動機が不純なため、成績はさっぱりでした。

高校は大曲農業高校で、十文字駅から大曲駅までの汽車通学が魅力でしたので、そちらの方へ進学をしました。
お米の増産時代だったので、米作りでも充分に生活が出来るという思いで高校時代を過ごしました。応援団の一員として各球場を廻ったのがなつかしいです。又、失恋なども経験しました。3年間通学をしましたが、片道3時間もかかるので朝が早くとにかく眠い眠いの高校時代でした。
高校卒業後は農業と冬は出稼ぎをしていました。米作りが主体でしたが、昭和47年頃から国の減反政策が始まり、大豆、スイカなどの転作作物に取り組みました。ただその頃のスイカ作りは技術も伴なわず、病果も多く出て、収入はそんなになかったと思います。現在もスイカ作りをしておりますが、自分の性格と栽培の面で相性が合っているのかもしれません。
出稼ぎ先はさまざまで、銀座で店員をやったこともあるし、三菱自工で組立てもやりました。一番長かったのは“弁天小川運輸”という運送屋さんで親せきではありましたが、約5年くらい働かせていただきました。
高度成長の頃で、仕事量も多く、日本全国と言えば大げさですが、南は大阪、北は青森まで荷物を運んで走りました。
今考えると、出稼ぎ先での様々な出合いや経験が私の財産の一つです。40歳頃まで農協青年部に在籍し、いろいろな仲間との出合いや活動、よく議論を交わしたことも財産であり、良き思い出です。
妻との結婚は早く、私が22才、妻が23歳の時です。恋愛結婚と言うべきか、勘違い結婚と言うべきか、お互いにつき合うことになったキッカケは、私が正月に出稼ぎ先から帰省をして駅でバスを待っている時、彼女が病院へ出勤のため駅で電車を待っている、わずかな時の出来事で顔見知りでしたのでお互い目礼を交わしたとき、私はコカコーラを飲んでいました。その後、チラチラと何回も私を見るので、コカコーラを飲みたかったのかなと思い、春、出稼ぎから帰るとコーラでも飲まないかと誘いデートをして、それからはお定まりのコースとなり結婚してしまいました。
後で妻にあの時コーラを飲みたかったのかと聞いたら、あんまりきたない格好をしているので見ていたとのこと、大変なる私の早とちりでした。
妻は自分から望んでの看護婦という職業を今も続けております。白衣の天使などと言われてはおりますが、厳しくきつい仕事のようです。横手市の平鹿総合病院の総看護師長として、毎日病気と戦っている患者さんとともにがんばっている姿勢は、私としても見習うものがあります。
私達には2人の子供がおります。
長女(蜂谷理香子)結婚して千葉県に住んでいます。子供(悦詞0才)一人、私には外孫です。長男(土谷純郎)結婚して今、静岡県掛川におります。子供(凛太郎、真琴)と二人、私にとっては内孫です。丸大ハムに務めておりますが、将来は秋田県に来ます。今の少子化時代を考えるともう少しがんばれば良かったかなと思うけど、妻が病気のためこれ以上の子作りは出来ず、断念いたしました。
転作作物として栽培を手がけた“スイカ”では、十文字町スイカ部会の部会長を41才の頃からやりました。現在は農協合併にともない、JAふるさとスイカ部会の副部会長及び十文字町スイカ部会の支部長を務めております。
昔と違い、大型ハウスでの密植栽培から始まって、密植整枝栽培(一果取り、ニ果取りアリ)、移動式栽培、普通栽培、遅出し栽培、又、紅こだまスイカや、黄色のスイカ、皮の黒いスイカや多種多様の品種や栽培があり、それぞれ農家の方々が取り組みをしております。
ちなみにJAふるさとスイカ部会の販売高は約6億円から7億円、年によって変動があります。
昭和63年に39才で町会議員になりました。新しい人材を求める地元の推薦もありましたが、地域の活性化や農業の低迷からの脱却、商工業の発展のためになんとかしなくてはという強い思いがありました。
十文字町長の小川健吉氏、現在議長の高橋謙氏とは町議の同期で3人会という勉強会を作っておりました。
一期目は、産業常任委員会副委員長
二期目は、産業常任委員会委員長
三期目は、副議長(2年間)
ダイオキシン対策特別委員会委員長などを務めました。
町議会議員として活動するうちに、町として出来ることと、出来ないことがあり、町単独では限界があり、地域と県との橋渡し役が必要であると感じるようになりました。
県南部の横手平鹿地域、湯沢雄勝地域にすれば高速道路は山形県に繋がらず、新幹線も大曲から盛岡に抜けるようになり、県南部は袋小路のような、陸の孤島のような、取り残された感がありました。閉塞感を打破したいという思いもあり、県議会へ立候補することを決意いたしました。
しかし両親と妻に話をしたところ、反対されて一ヶ月まともに口をきいてくれませんでした。私も決意が変わらず、いろいろな準備をしておりましたが、妻が「将来、互いに年をとっていっしょに暮らすなかで、あの時県議会に挑戦してたらなどと、ぐちをこぼしたり後悔ばかりしていたら、それを聞く私も耐えられない。やめろといったが、それほど決心が堅いのならがんばってみたら。」と言ってくれました。
今考えると家族の協力がないと前には進めないことと、私のことで妻や家族には難儀をかけていることを痛感します。
家族はもちろんですが、後援会の皆さん、又、仲間や友人、同級生などに恵まれ、現在があります。
これからも私を支えてくれる多くの皆さんと、共に手を取り合いながら、少しでも秋田県のためにより良い郷土作りのために議員活動を行っていきます。

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