秋田県遺族連合会主催 H.17.10月27日〜11月2日

日本海軍通信所跡(テニアン)

慰霊巡拝の訪問場所
 テニアン島は、第1次大戦に日本が占領、その後、製糖工場により栄え、多数の日本人が移住したところだ。隣島のサイパン・グアムとは違い、まだ大きくは観光化されていない。そのせいか、当時の激しい戦禍を彷彿とさせる戦跡が至るところに残っていた。慰霊巡拝として回る第1日目とあって、各団員がこうした一つ一つの戦跡を目にし、心なしか悲痛な表情を浮かべているようだった。また、その日は、日差しがかなり強く、当時、周囲の密林に逃げ隠れし、生活を送っていた人々の暮らしが、いかに大変だったかが想像できた。

 島を縦断する広々とした直線道路・ブロードウェーを北に走ると、右手に日本海軍通信所跡があった。壁は全て倒壊し、コンクリートの基礎、柱などだけが残る。建物の周囲は多数の弾丸の跡が見受けられる。ここで、テニアン島における戦没者慰霊式を行った。
 団員全員が焼香し、黙とうした。御遺族から詩吟などが捧げられた。胸が痛んだ。



飛行場跡、原子爆弾搭載ピット跡(テニアン)
 通信所跡からさらに北へ進み、密林の中を抜けると、立派に舗装された飛行場跡に到着した。当時の滑走路がそのまま道路として利用されているとのこと。ここから、あの広島、長崎に原子爆弾を投下したB29が発進したという。もともとは日本人が建設した飛行場であったが、日本軍が使用しないまま米軍の手に渡り、大きく飛行場は拡張され、日本攻撃の拠点として利用されたという。なんとも言えない気持ちである。原子爆弾搭載ピットが二箇所、広々とした滑走路内に建っており、ここから原子爆弾がB29に吊り上げられたという。そこは、生々しい戦争の傷跡が残っているわけでもなく、10坪にも満たない小さな場所ではあったが、悲惨な歴史の一ページを見た気がした。

バンザイ・クリフ(サイパン)
 サイパン島の最北端、海を見下ろす断崖絶壁は、通称バンザイ・クリフと呼ばれ、第二次世界大戦の末期、米軍のサイパン島上陸、その後の北上に伴い、逃げる場を失った多くの日本人が、ここから「天皇陛下万歳」と叫びながら、眼下の大海原に次々と身を投げた場所である。この場所には、その死を悼み、関係者などによって建てられた多数の慰霊碑が建立されており、団員達がその慰霊碑の一つ一つに手をあわせていたのが印象深かった。我々が訪れた時は、天気も素晴らしく、太平洋の青い大海原など、その風光明媚な景色は、今日の日の平和のありがたさを感じさせてくれた。

スーサイド・クリフ(サイパン)
 島の北部、マルピ山の北端にある断崖にあるスーサイド・クリフと呼ばれる断崖も、バンザイ・クリフと同様、米軍に追いつめられた多くの日本兵や民間人が身を投げた場所である。我々団員を乗せたバスは、絶壁の頂上まで登り詰めた。頂上に立ち足元から眼下を見下ろすと、その崖のあまりの高さに背筋に冷たいものが走り、足元がすくんだ。

「中部太平洋戦没者の碑」追悼式にて(サイパン)

 団員の中に、以前この地で戦没者の遺骨収集を行った方がいた。このスーサイド・クリフの下に、やはり多くの遺骨が埋まっているという。その付近一帯の中で担当箇所を割り振られ、集中的に遺骨収集を行ったとのことである。サイパン島の戦没者に占める遺骨収集割合は半分にも満たない。戦没者の多くは、まだこの島に眠っているそうだ。我々団員は、全員で黙とうを行った。


彩帆香取神社、松江春次銅像(サイパン)
 彩帆香取神社は、日本人がサイパン島に入植した第1次世界大戦前後に、島の産業の繁栄を祈願するため創建されたが、第2次世界大戦中、戦火により建物は炎上した。
1985年、サイパン島が属する北マリアナ連邦と日本との友好、太平洋の国々の平和を祈念し、神社は再建されたとのことである。
 神社の近くには、戦前、サイパン、テニアンで砂糖の生産で名をとどろかせた松江春次の銅像が立っていた。松江氏は、この地に南洋興発株式会社を立ち上げ、製糖工場をつくった。これは多くの日本兵がこの島に移住するきっかけとなった。当時は、北の「満鉄」、南の「南興」と呼ばれるほどの大会社であったが、島の玉砕とともにその歴史を閉じた。ただし、この松江氏の銅像は、戦争中も破壊されることなく、奇跡的に残ったという。
 この異国の地に、戦前の日本統治時代の名残りを残す神社が戦後になって再建され、また、同じく戦前にこの島で活躍した日本人の銅像が当時のまま残され保存されているということは、日本・サイパン両国が友好な関係にあるからこその結果であり、国際平和の尊さを改めて感じた。

学校訪問(サイパン)
 当初の日程では、28日(金)に現地の学校に訪問することになっていた。しかし、飛行機の遅れから、その日は訪問する時間がとれず、今後の日程を考えると、学校訪問は不可能かと思われた。しかし、たまたま訪問予定の学校が日曜日にも登校していることが分かり、30日(日)に訪問が実現した。
 子供たちは、我々に歌を披露してくれた。皆が元気がよく、我々日本人に対しても、積極的に触れ合ってきてくれて、熱烈に歓迎してくれた。サイパンには、日本をはじめ他国から多くの観光客が訪れており、子供たちは、国際的感覚を日常的に持ち備えているのだろうと思った。団員全員で「赤とんぼ」を歌った。子供たちは大きな拍手で応えてくれた。また、団から、ボールや学用品などを子供たちにプレゼントした。子供たちの笑顔、喜ぶ姿が忘れられない。誠に有意義な時間であった。

洋上慰霊(サイパン)
 小雨のぱらつくあいにくの天候の中ではあったが、洋上慰霊は予定どおり行われた。零戦が沈む地点に船を停留させ、団員の代表が海に向かって献花し、全員で黙とうを行った。この海で肉親を亡くされた方は、目に涙を浮かべながら、持参したお餅や飲み物などを海に向かい捧げていた。こうした遺族の姿を見たとき、悲しさが胸に迫ってきた。
 その後、旧日本軍の軍艦が沈む地点にも向かった。大砲部分がはっきりと確認できるとともに、軍艦の帆の部分の先が、海上へ突き出ていた。当時、海・空で繰り広げられた激しい戦禍を彷彿させる光景であった。

中部太平洋戦没者の碑(サイパン)
 日本軍最後の司令部が置かれたとされる場所、見上げると砲撃の跡が至るところに残るスーサイド・クリフの絶壁がそびえ、近くには戦争時に使用された戦車などが置かれている。生々しい戦争の悲惨さを感じさせる場所に建立された。中部太平洋戦没者の碑で追悼式が行われた。県遺族連合会長、出納長、副議長のことばの後、この地で父を亡くされた2人による追悼のことば、詩吟の献奏、郷土民謡の献歌などが行われた。式の途中、突然のスコールに遭い、団員の一人が、「この雨は戦没者の涙ですよ」と話されていたのが印象に残った。

南太平洋戦没者慰霊公園(グアム)
 島の北東部は、戦争時に激戦となったエリアである。日本軍最後の戦闘の拠点となった地点は、今、南太平洋戦没者慰霊公園となっている。園内には、ちょうど手を合わせて合掌した形をイメージして作られたという高さ15メートルの記念塔が建立されており、塔の地下は納骨堂になっているそうである。また、隣には平和寺というお寺も建てられており、中には、仏像が収められているほか、この周辺で見つかったと思われる戦没者の遺品などが所狭しと並べられていた。個人で建立したと思われるたくさんの追悼碑も園内に見られ、公園全体がきれいに整備され、丁寧な管理が施されているようであった。地元国の大きな理解があるからこそ、このような素晴らしい慰霊公園として整備されているのだろうと感動した。
 記念碑の前では、慰霊式が行われた。全員で黙とうし、団員一人ひとりが焼香した。

防空壕跡(グアム)
 グアムの政治・経済の中心地となっているハガニア地区。ここに戦争中に使用された防空壕跡が、保存され公開されていた。島内の各地にこうした防空壕跡が残されているという。防空壕の中はコンクリートで補強されていて、中を通ることができた。真っ暗で先も見えない状況。想像よりは広く感じたが、多くの人が逃げ込んだ当時のことを考えると、そんなことはない、皆が身を寄せ合って潜んでいたことだろう。


  品田出納長(真中)と京屋福祉部長(左はし)と
 市街地に残るこうした戦地には、日本から訪れている若い世代の観光客などにも容易に立ち寄ることができる。彼らに、この島の戦史、戦争の悲惨さと平和の尊さを知ってもらえる貴重なスポットではないかと感じた。



中部太平洋戦没者数(軍人・軍属)


◎サイパン島
陸 軍 総 数     29,431     戦没者数      28,110
海 軍  〃      15,890       〃        15,164
 計   〃      45,321       〃        43,274
                            (95%戦死)
※戦中戦後の一般邦人戦没者数及び海没者を含む場合      55,300
 遺 骨 収 集 数                    26,698

◎テニアン島
陸 軍 総 数      3,971     戦没者数      3,645
海 軍  〃       6,750       〃 6,317
 計   〃       10,721 〃        9,962
                            (92%戦死)
※戦中戦後の一般邦人戦没者数及び海没者を含む場合      15,500
 遺 骨 収 集 数                    10,131

◎グァム島
陸 軍 総 数      12,809     戦没者数      11,704
海 軍  〃       7,995       〃 7,425
 計   〃       20,804 〃       19,129
                            (92%戦死)
※戦中戦後の一般邦人戦没者数及び海没者を含む場合      20,100
 遺 骨 収 集 数                      442

●総計(サイパン・テニアン・グァム)
陸 軍 総 数      46,221     戦没者数     43,459
                            (94%戦死)
海 軍  〃       30,635       〃       28,906
                            (94%戦死)
   計 〃       96,846       〃       72,365
                            (94%戦死)
※戦中戦後の一般邦人戦没者数及び海没者を含む場合      90,900
 遺 骨 収 集 数                    37,271

   



 初めての海外慰霊巡排に参加して感じたことは、私の父も沖縄で終戦を迎えました。マブニの洞窟で、腕や足を負傷し仲間と潜んでいた時に、アメリカからの降伏の勧告と日本は負けたとの放送などが何回もあり、仲間との話し合いの上、意を決して手榴弾を一発だけ持ち、もしだまされた場合には自決するとの覚悟で洞窟を出て、そして自分の終戦を迎えたとのことでした。
 負傷した腕や足には、ハエが卵を産み“うじ虫”が発止し、ハシで毎日取ったそうです。北の方に行けば助かるといって出ていった戦友は、ほとんど亡くなったとのことでした。仲間との話しの中で、皆自決とのことであれば、今の私はなかったことになり、よく生きて来てくれたと思います。感謝しております。
 終戦近くなり、大陸の満州の方から南方が危ないとのことで、沖縄やその他中部太平洋方面へ配属されたとのこと。生きるも死ぬも紙一重の世界と感じます。それが、私が小学生のころ私の父が話ししてくれたことです。
 このたびの巡拝には、父の話してくれたことが何度となく思い出されました。何故、こんなにも美しい海や景色の中で、戦争しなければならなかったのか。改めて、慰霊と平和の祈りを強く念じて参りました。

サイパン、グアムでの
ちょっとほのぼのとしたお話


 慰霊巡拝で、戦争の悲惨な話や現場を見て、気持ちが沈み込んでいる時、通訳の方から伺ったちょっと和やかになる話がありました。
 現地の女性の若い方々(20代)は、スラットした体型の美人さんが多かったのですが、少し年配の方になると(40代・50代)、男性も女性もびっくりするほど太く、体重が100kgを超えるようなビアダルのような方々が多く見られました。
 外国の人は、年齢的に年と共に太くなるのかな?、また体質的にそうなのかな?と思い、通訳の方に‘随分太い美人さんが多いですね’と尋ねたところ、サイパン、グアムの現地人チャモロ人は、結婚すると奥さんにあらゆる限りの贅沢をさせ(着るものは暑いので簡素)、食べるものも美味しいものを好きなだけ食べさせるそうです。それゆえ、結婚を期にブクブク太ることになり、私達日本人のように体重と相談しながら食べるのと違い、信じられないようなおデブさんになってしまうのであります。
 お父さんにとっては、お母さんに最高の幸せを与えることとなり、おデブさんであればあるほど甲斐性があり、他の人に幸せを自慢できるとのこです。
 日本で言われる“幸せぶとり”が、現実としてあったということがうれしく、日本人もあまり体重を気にするなと言いたくなるような、なんとなくほのぼのとした想いで、現地の人と接してきました。

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